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「今後の備えに役立つのなら」 旧門脇小で被災した学生が伝える防災

2025.03.12
 「当時この場所で何があったのか、生の声で知りたいという気持ちに応えられるならうれしい」。東日本大震災が起きたとき、旧門脇小学校の2年生だった名古屋大4年の岩倉侑(あつむ)さん(22)は今、そんな思いで被災体験を語っている。
 帰りの会で話題になっていたのは、新しく生まれたウサギの名前のことだった。2011年3月11日午後2時46分、2年2組の教室。自分のつけたい名前をみんなが発表していたとき、突然強い揺れが始まった。
 避難訓練通りに机の下に隠れようとした。しかし、小学生の力ではその場にとどまっていられないほどの激震。約3分間の揺れが収まったときには、机ごと教室の後ろの方に放り出されていた。とにかく何が起こっているかわからず、「怖いというより、混乱していた」。
 校庭に避難すると、大津波警報が出たため、学校の裏側の標高約60メートルの日和山へ逃れた。地震の約1時間後、津波が押し寄せた。山に津波がぶつかった時は、自分のいる場所にまで衝撃が伝わった。
 その後、避難所へ。近くの人のラジオや携帯電話から緊急地震速報が鳴りやまなかったが、もはや、どの揺れに対する速報なのかも分からないほど余震が続いた。
 1週間後。小学校と海の間にある南浜町の家の様子を見に行くと、自宅周辺の一帯は建物が消えていた。散乱していたがれきは、津波が引き起こした火災で焼け焦げていた。校舎も真っ黒になっていた。
 3月末まで石巻市の避難所で過ごし、4月に家族で仙台市に引っ越した。住んでいた南浜地区は震災後、災害危険区域となり、自宅があった場所には戻れなくなった。
 「門脇に残っていても、友達がみんな戻ることはないと感じていたから、門脇を離れることは寂しくなかった」
 高校時代、日本の高校生と海外の高校生が防災について話し合うサミットに参加したことをきっかけに、防災を学びたいと思うようになった。
 ただ、身内が無事だった自分が語り部をすることにためらい、それまで体験を公に語ることはなかった。それでも、大学1年の9月、初めて名古屋の知人の求めで語り部をする機会があり、その後は依頼が続いた。
 「今後の災害への備えに役立つのなら」。次第に語ることに前向きになり、講演回数は計60回以上に達した。8日、石巻市の公共施設「みやぎ東日本大震災津波伝承館」でも被災体験を語った。
 自分の母校は、震災の被害と教訓を伝える「震災遺構」となった。幼少期を過ごした町も復興祈念公園となり、あの日のことを知ろうと全国から多くの人が訪れる場となった。
 岩倉さんが講演すると聞き、クラス担任だった阿部辰朗さん(41)が駆けつけた。「語ってくれるのは本当にありがたい。改めて教えることを大切にしていきたい」
 この日、旧門脇小で語り部をしていた元校長の鈴木洋子さん(74)とも再会した。鈴木さんは「若い世代が震災の経験を語り継いでいくことは、本当に涙が出るくらいうれしい」と声をかけた。
 語りの場が、再び人々を結びつける。鈴木さんは11日も、石巻南浜津波復興祈念公園であった追悼式で体験を語り継いでいくことを呼びかけた。
 岩倉さんはこの日、仙台市の実家で過ごした。多くの子どもたちが祈りを捧げるテレビ中継の映像を眺めながら、思いを新たにした。「震災を知らない子どもたちにも防災の大切さをしっかり伝えていきたい」(岸めぐみ)

 震災から14年が経ち、次の災害への備えも進む。様々な立場の人が、それぞれの被災経験を伝える取り組みが、県内で広がっている。
 11日午前、気仙沼市の震災遺構・伝承館(旧気仙沼向洋高校)。来館者を案内するのは、地元中高生の語り部だ。高校2年の吉田美咲さん(17)は、津波が校舎4階まで達し教室に車が突っ込んだ様子を説明しながら「(津波は)こわいと思った心を、大事にしてほしい」と訴えた。
 震災の時は3歳だった。「私は幼なじみの男の子が流され、今も見つかっていません。街は復興し、人の心からあの出来事が薄れてゆくようです。でも過去のものにしちゃいけない」
 同市の中央公民館で開かれた「追悼と防災のつどい」では、地震の時刻の黙禱(もくとう)に先立ち、市内出身の大学生、岩槻佳桜(かお)さん(19)が講演に立った。
 岩槻さんは東京で学生生活をしながら、能登半島に足しげく通い、子どもたちの居場所づくりの手伝いや、豪雨復旧のボランティアなどをしている。「震災の時5歳だった私は、一つ一つの支援にありがとうって言えなかった。だからいま、ありがとうを行動で示しています」と語った。
 さらに、会場の人たちに提案をした。「能登の人を招待しませんか。気仙沼の復興の姿を見せ、未来は明るいと伝えましょう」。同市では3年前から、3月11日は追悼に加え、教訓を引き継ぎ災害に備える日と位置づけている。
 東松島市の市立鳴瀬桜華小学校では、保護者が被災体験を児童に語る集会があった。同小は震災で壊滅的な被害を受けた旧浜市小と、隣接する旧小野小が統合して2013年春に開校。いずれも旧浜市小出身の石森荘一郎さん(49)と門間瞳さん(34)が児童を前に経験を語った。
 石森さんは当時、防災無線で避難が呼びかけられていたにもかかわらず「津波は来ない」と思い込み、近所の見回りをしていた時に津波にのみ込まれた。「津波の中でどっちが上かも分からず、息も続かない。ここで死ぬのかと思った」。流されてきた家の屋根に夢中でつかまり、「運よく生きのびることができた」と振り返った。
 門間さんは家が流され、約4カ月間の避難所生活を送った。「もっと家や浜市の写真を撮っておけばよかった。もっと思い出を作っておけばよかった」。震災後はなかなか笑顔になれなかったという。「あのつらい経験をしたからこそ、後悔しないように今を全力で楽しみたいし、楽しんでほしい」と語りかけた。
 2人とも震災体験を人前で話すのはこの日が初めてだった。門間さんは「自分の体験は軽いのではないかと、話しにくい気持ちもあった」という。ただ、今の小学生は震災を経験していない世代。「風化させたくない」という思いで、話すことにしたという。
 仙台市青葉区の宮城学院女子大学では、震災前から勤務している教授2人が登壇し、「宮城学院で経験した3.11」のテーマで当時の経験を語った。
 同大学では、沿岸部にいた4年生と2年生の学生2人が亡くなり、学内の施設も大きな被害を受けた。教職員らが学生を保護し、情報収集や帰宅困難者らへの対応にあたったことや、学生たちの専門を生かした復興への取り組みについて話した。
 戸野塚厚子教授(教育学)は「被災者と非被災者の二項対立で考えると見えないものがある。一見分かりにくい被災にも目を向け、丁寧に学生や地域に寄り添いたい」と話した。市野沢潤平教授(文化人類学)は「単発的ではなく、地域の支援を継続していくことが、地元の大学の役割」といい、「教員の顔ぶれも変化している。講演を通して今後に生かしてもらえれば」と話した。(石橋英昭、中島嘉克、阿部育子)

 この場所を、あなたのことを――。11日、県内各地で飛ばされた風船には、遺族や住民のそれぞれの思いが込められた。
 仙台市若林区の旧荒浜小学校では、卒業生らが企画した「HOPE FOR project」が開かれ、敷地内で育てた花の種を入れた色とりどりの風船が舞った。荒浜地区は災害危険区域に指定された。企画した高山智行さん(42)は、「一見何もないように見える場所だけど、かつては人々の暮らしがあり、明るい景色が広がっていた。街を歩き、そんなことを感じてもらえたら」と話した。
 「あなたの笑顔を忘れない」「1日1日を大切に、元気に暮らせますように」――。名取市の伝承施設「閖上の記憶」では、ハトをかたどった風船が、亡くなった人へのメッセージを添えて大空へ放たれた。
 14人の生徒が犠牲となった旧閖上中学校の遺族らが開催している行事。代表の丹野祐子さん(56)は、長男(当時13)を津波で亡くした。「忘れられるのが不安。14人がここに生きていたこと、忘れないでほしいです」(阿部育子、吉村美耶)