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むごい最期「忘れない」=弟が犠牲、平和への願い―95歳被爆者の中川さん・広島

2025.08.07
 「原爆でえらい目に遭うた」。15歳の時に広島市で被爆した中川峰子さん(95)は、臨時救護所で、変わり果てた姿になった3歳下の弟を見つけ出し、家族で最期をみとった。「あの時のことは忘れない」と声を震わせ、今年も平和を願い手を合わせた。
 80年前の8月6日、中川さんは爆心地から1.5キロの自宅前で爆風に飛ばされた。瓦が頭に当たり、左半身は血だらけ。近くの畑に避難した後、姉と共に弟の智夫さんを捜した。
 目に飛び込んできたのは、炭化した遺体や、倒れたブロック塀の上に並べられた頭蓋骨。山のように積み重ねられた中から遺体を引っ張り出して、わが子を探す親もいた。怖くて同じようにはできなかったが、「弟じゃないか」と遺体をのぞいて歩いた。
 翌7日、臨時救護所として路面電車のレールに寝かされた負傷者を見て回った。端から端まで3往復したが、誰もが大やけどで顔全体が赤く腫れ上がり、区別が付かない。もう一度確認している途中で、瓦に書かれた智夫さんの名前を見つけた。思わず声を上げると、「姉ちゃん」と返事が返ってきた。「腫れて目が見えない中で、声だけで待っていたと思う」
 智夫さんは、建物の下敷きになり動けずにいたところを、見知らぬ男性が助けてくれたという。親戚の家で看病したが、「姉ちゃん」などと中川さんら家族一人ひとりに声を掛け、9日朝に息を引き取った。
 一緒に遊んだり、留守番中に寂しくて泣いたり、今でも「小さいときのことばかり頭に浮かぶ」という中川さん。8月6日は「やはり弟のことしか頭にない。むごい最期がよみがえってくる」と癒やされぬ悲しみを語った。
 3年ほど前からは、長男の俊昭さん(74)が被爆体験を伝承するボランティアを始めた。講話の際に配れるよう、平和への願いを込めて折り鶴を作り始め、これまでに5000羽近くに上ったという。
 世界各地で戦争が続き、当時の広島のように苦しんでいる人がいるのではないかと胸を痛めている。ひ孫2人は智夫さんと同年代になった。「ひ孫が兵隊に出るようなことがあってはいけない。日本はもちろん、どこであっても戦争はいけません」。中川さんは力を込めた。